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愛媛県大洲市新谷にひっそりと鎮座する「三島神社・新谷(みしまじんじゃ・にいや)」。その創建は奈良時代の神亀5年(728年)にまでさかのぼり、伊予水軍を率いた古代豪族越智氏(乎致氏)と深い関わりを持つ、由緒ある古社です。本記事では、三島神社・新谷の創建の経緯、勧請元である大三島・大山祇神社との関係、そして越智氏の系譜について、図解を交えながら詳しく解説します。
📖 目次
🏯 三島神社・新谷の創建|神亀5年(728年)の勅命と勧請の歴史
三島神社・新谷の創建は、奈良時代の神亀5年(西暦728年)と伝えられています。この年、伊予国(現在の愛媛県)の有力豪族であった乎致宿祢玉興(おちのすくね たまおき)とその子玉澄(たまずみ/たますみ)の親子は、朝廷からの勅命(ちょくめい)を受け、瀬戸内海に浮かぶ大三島の大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)から、ご祭神である大山祇神(おおやまづみのかみ)=三島大明神(みしまだいみょうじん)=大山積神(おおやまづみのかみ)を、この新谷の地へと勧請し、社殿を造営して三島神社を建立しました。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 創建年 | 神亀5年(西暦728年・奈良時代) |
| 勧請元 | 大三島・大山祇神社(愛媛県今治市大三島町) |
| 主祭神 | 大山祇神(三島大明神・大山積神) |
| 創建者 | 乎致宿祢玉興・玉澄 親子 |
| 由来 | 朝廷の勅命による勧請・新谷郷の氏神 |
| 合祀神 | 乎致宿祢守興(玉興の父・伊予水軍の将) |
その後、三島神社は新谷郷一帯の氏神として広く信仰を集めるようになります。やがて、玉興の父であり、かつて白村江の戦い(はくすきのえのたたかい・663年)において伊予水軍を率いて朝廷軍として戦った武将乎致宿祢守興(おちのすくね もりおき)の御霊もまた、この三島神社に合祀されるようになり、神社としての格式と地域とのつながりを一層深めていきました。
⛩️ 大三島・大山祇神社から新谷への勧請|三島大明神(大山積神)の御神徳
勧請元である大山祇神社は、瀬戸内海の中央に浮かぶ大三島(おおみしま)に鎮座する古社で、全国に約一万社あるとされる山祇神社・三島神社の総本社として知られています。ご祭神の大山祇神(大山積神)は、山の神・海の神・武運の神として、古来より朝廷・武家・庶民を問わず篤い崇敬を集めてきました。
特に瀬戸内海を舞台に活躍した伊予水軍(後の村上水軍の源流)にとっては、海上守護の神であり、戦勝祈願の対象でもありました。越智氏が氏神として大山祇神を奉じていたのは、まさにこの「海の民」としての性格と深く結びついています。新谷の地に三島大明神を勧請したことは、越智一族の信仰と新天地経営の象徴的な行為であったといえるでしょう。
山の神 山林・農業・五穀豊穣
海の神 海上安全・航海守護・漁業繁栄
武の神 戦勝祈願・武運長久・国土守護
📜 乎致(おち)と越智氏の関係|古代日本における表記の違いと由来
ここで重要になるのが、「乎致(おち)」という古代の表記です。乎致は、古代日本における越智(おち)氏の古い表記のひとつであり、古文書には「乎致」のほかに「越智」「小千」「子致」などの漢字が、時代や書き手によって使い分けられていたことが記録されています。
たとえば、本記事の主人公である「乎致宿祢玉興」は、史料によって以下のように複数の表記で記されています。
| 表記 | 読み | 主な使用例・時代背景 |
|---|---|---|
| 乎致玉興 | おち たまおき | 奈良〜平安期の古い表記 |
| 越智玉興 | おち たまおき | 中世以降に一般化した標準表記 |
| 小千玉興 | おち たまおき/こち たまおき | 古社家系図・神社縁起などで散見 |
| 子致玉興 | おち たまおき | 稀少な異表記 |
いずれも同一人物を指す名称であり、漢字の違いはあくまで表記の揺れにすぎません。この表記の多様性こそが、文字文化が定着する以前の古代日本における氏族名の伝承の特徴を物語っています。
古代日本では、氏族名は「音(おと)」で伝えられ、文字はあくまでそれを表記するための手段でした。そのため、同じ「おち」という音に対して、書き手の好みや時代の漢字使用慣習によって「乎致」「越智」「小千」など複数の漢字が当てられたのです。
⚔️ 越智氏の系譜|乎致宿祢守興・玉興・玉澄の三代と白村江の戦い
三島神社・新谷の創建に関わった越智氏(乎致氏)の系譜を整理すると、創建を語るうえで欠かせない三代の人物が浮かび上がります。
- 乎致宿祢守興(祖父):白村江の戦い(663年)に伊予水軍を率いて参戦した武将。のち三島神社に合祀される。
- 乎致宿祢玉興(父):神亀5年(728年)、勅命を受け新谷に三島神社を建立。
- 玉澄(子):父・玉興とともに勧請に従事し、新谷郷の経営を引き継ぐ。
特筆すべきは、祖父である乎致宿祢守興が参戦した白村江の戦いです。これは天智天皇2年(663年)、朝鮮半島で倭国(日本)・百済連合軍と唐・新羅連合軍が激突した古代東アジア最大級の国際戦であり、守興は朝廷の命を受けて伊予水軍を率い、これに従軍したと伝えられています。
この戦いで倭国は敗北を喫しましたが、その後の国防体制の再構築において、瀬戸内海の制海権を担う伊予水軍の存在意義は一層高まりました。こうした「海の武門」としての家格こそが、孫の玉興が朝廷から勅命を受けるに至った背景にあると考えられます。
🏛️ 伊予国造としての越智氏の役割|行政・軍事・祭祀を担った地方豪族
越智氏は、伊予国(現在の愛媛県)を本拠地とした古代の有力豪族であり、伊予国造(いよのくにのみやつこ/いよこくぞう)として、地方統治の中枢を担っていました。
国造(くにのみやつこ)とは、ヤマト王権が地方統治を進める過程で、各地の有力氏族をその地域の支配者として任命した古代の官職です。すなわち国造は、地方政治における王権の代行者として位置づけられた存在であり、行政・軍事・祭祀という三位一体の職務を統括しました。
| 職務 | 具体的な役割 | 越智氏との関わり |
|---|---|---|
| 行政 | 租税徴収・戸籍管理・地方行政全般 | 伊予国内の郷の編成・新谷郷の経営 |
| 軍事 | 地方軍の指揮・防衛・徴兵 | 伊予水軍の統率・白村江の戦いへの参戦 |
| 祭祀 | 地方の神祭り・氏神祭祀の主宰 | 大山祇神の奉斎・三島神社の勧請 |
つまり、越智氏が新谷の地に三島神社を建立したのは、単なる信仰の発露ではなく、国造として地域の祭祀を司る公的な使命でもあったのです。三島神社・新谷は、こうした古代地方豪族の統治と信仰が結晶した、まさに歴史の生き証人ともいえる存在といえるでしょう。
神亀5年(728年)に乎致宿祢玉興・玉澄親子によって勧請された三島神社・新谷は、単なる地方の古社ではなく、伊予国造・越智氏の信仰と統治の象徴であり、白村江の戦いに連なる古代日本の対外史、そして瀬戸内海を舞台にした海の民の物語をも内包する、極めて重要な歴史遺産です。表記の異なる「乎致」「越智」「小千」「子致」という名前の揺れもまた、文字文化以前の古代日本の息吹を今に伝えています。
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